【集中豪雨災害】
亘さんのブログに【昭和44年8月の集中豪雨災害】の事が詳細に書かれて居た。
当時すでに東京の会社に就職して居た私に取っては、 「大変だったろう」 とは思って居たが改めて見直
すと、この時の災害の大きさを、思い知らされた気がする。
同時に、まさに壊滅に近い状況から復興させ、現在の繁栄を築き挙げた故郷の人々とその中核として活動さ
れたであろう、団塊世代の我らの仲間達に、改めて脱帽である。
【昭和44年以前の城内】
ところで、我々がトンボやセミ・ホタルを追いかけたり、畔豆(大抵は大豆)の葉枝で編んだ(タタミ
と言ったかな?) ものを、ブーメランみたいに投げて遊んだりして育ったた故郷の風景。
あの頃の風景はこの “被災” が引き金となったのか、以外に早く【土木改良事業】で変わってしまった。
故郷の人には申し訳ない事だけど、故郷を離れて数十年を経ると、あの頃の風景が見られない事に一抹の
寂しさも感じる。
写真は中学2年の3月下旬だったと思うが、長崎育ちの義兄を案内して・凍み渡りをしながら暮坪山
(くれつぼ山 : 宇田沢川を挟んで学校の対岸の山) へ登った時、義兄が写していたもの。
♦ 暮坪山から見た 【昭和36年頃の、合同製糸 から 城内中学方面】
左下の工場が「合同製糸」、手前の鬼の面(オンノツラ)山が一部邪魔しているが煙突も見えている。
記憶が定かでないが、一番右側下の建物がS44年の災害で流された中学校の体育館かな?
遠方は藤原から下原新田位までの範囲が写っていると思うのだが・・・今の風景とはだいぶ違いそうだ。
【雷電様】・・・・・命の水の水源地
藤原と言えば、我らの実家・上原(学校のある地域)などの上水道の水源地 【雷電様】 のある所。
【雷電様】 にはこんな希少な花も咲く、清酒 【八海山】 もこの水から生まれると言う。まさに命の水だ。
※ 水源の岩場からの湧水を、雫としてまとった様な姿、まるで【妖精の集会】だ。
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こ昭和36年頃の写真いいですね。懐かしいなあ、「ごーどー」ですか。中学、小学校も木造だし。あの頃の風景がもうないのは非常に残念です。
久さんの意見に全く同感です。44年の水害を境に城内は変わってしまった。藤原なんかきれいな川が3面コンクリートですから。たまらないです。もっとセンスのいい開発があったはずなんです。今思えば。
で、私が提唱したいのが逆開発。これについては別に書こうかなと思っています。
>私が提唱したいのが逆開発。これについては別に書こうかなと・・・
是非書いて下さい、早く読んでみたいな~!
実は私にも故郷の10年後, 20年後, 50年後, 100年後なんて夢物語を、いつの日にか提唱して見たいと思っている。
とは言え10年後については“夢”と言うには近すぎて、具体案でなければ絵空事になってしまう。
また、20年以上先の事になると、自分はこの世に居ない可能性が大きく読む立場になって考えると、
“好き勝手に大ぼら書いて!”って「本気で読んでもらえないんでは?」なんて考えてしまと先に進めなくなってしまう。
せめて、亘さんや雄の様に絵に出来たら未来の夢をイラストで伝えられるのだが!
なんて、夢のまた夢を、捨てきれないでいる自分に時々苦笑しています。